昭和56年04月28日 朝の御理解
御理解 第64節
「この方は参って尋ねる所がなかた……」
ただ神様にはお願いをする、言うならただ悲しい時の神頼み的な信心から、教祖の神様が天地の親神様から神様のお心を受けられ、教えられて、そして神様のお心のまにまに、言うなら願う者を中心ではなくて、願われる神様を中心に生きられた。それがそのまま教祖の生きられ方、そのものがだから教えであります。そこでそういう教えを間違いなく頂いて行く事によって身に徳を受けておられます。身に徳を受け身しのぎができるようなおかげにもなってくる訳であります。
氏子が神様を中心にする生き方、神様を中心に申し上げたところの信心。それはもちろん神には何かお願い事や頼み事やお伺い事があって、ご縁を頂いたのですかれども、それは参って来る氏子の願いを、「願う氏子におかげを授け」と天地の親神様も言うておられるから、まあおかげをお徳を受けんなりに、信心が出来んなりに、おかげを受けるのですかれども「理解申して聞かせ」と仰せられる、その理解そのものが、もうみんなお徳を受ける手立てであります。
金光教のお教えはどの御教えでも、それが本当にその深さ広さに触れて、それが自分の生活の上に現される限りお徳が受けられる。いうなら一つのシステムがある訳。それを愈々誰でも行じられるように、説き明かしてあるのが合楽理念だとまあ思います。そして「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」これは三代金光様が合楽に対して下さった御教えなんです。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになると仰せられますから」と、こちらが神様任せ。
その為にはなら神様任せとい右事は、神様のお心が分からなければ、右にしてよいやら左にしてよいやら分からないでしょう。神様の心が分かるから神様任せに動いていく訳なんです。そこから神様が氏子任せになって下さるのです。それを合楽では神様のお心をお心として分からせて頂く手立てとして「天地日月のこころ」まあ言うなら昨日の御理解になってくる訳なんですが、中でも「成り行きを尊ぶ。
成り行きを大切にさせてもらう」と言う事は、神様を大切にする事であり、尊ぶ事であり、また神様のお働きを、そのままに受けていくと言う事なんです。ですから神様任せとはそういう生き方。いわゆる神様をご中心に申し上げるという生き方が段々分かってくるのは、愈々自然を大切にする事によって、自然を生かす事になる。自然の働きそのものを神様の御働きと分かってくるから、大切にせずにはおられん、尊んで受けなければおられなくなってくる。
そこには「自然を大切にする事は、自然を生かす事」と仰る様に自然そのものを神様とするならば、いわゆる神様をお生かし申し上げる事が出来るのです。成り行きを大切にする、尊ぶと言う事は。そこにまた神様が氏子を大切にして下さると言う事になります。身しのぎとはね、結局「徳を受けて」と仰る様に、神様が氏子中心に働いて下さる働きそのものを身しのぎと言うのだと思うですね。身しのぎが出来ると言う事は。いつも神様が、ここで言うなら大坪聡一郎を中心にして働きなさると言う事です。
だから皆さんがその信心を体得して、愈々自然を大切にする事によって、自然を生かす事。神様の働きを大切に頂いていくうちに、神様が生き生きとした働きをなされる事が出来ることになってくるのです。だからこちらが神様任せですから、またこちらが神様本位ですから、神様が氏子任せになって下さる、又は氏子本位で働いて下さる。ここには願いもなければ、頼む事もないのです。
いつもいつも神様が先に立って誘導しておって下さる。昨日は金光の古川のお母さんが、あちらが言わば長男になりますからね、見舞いに見えた。ひょっこり見えましたから、もうこちらへ直接見えて、ちょうど豊美が毎日1時から参りますから、あちらの方へ参りました。私は豊美から聞いたんじゃないですけれど、家内から聞いたんですけれども、大変おかげを頂いて、あちらで3時から7時までしかおられませんから、7時の新幹線でまた帰られる。日帰りをされた訳です。
それで聞かせて頂いたのですけれども、いつもの事ながら有り難い事ねと、申しましたんですが。昨日初めて一人で立ってお便所に行くというおかげを頂いておる。昨日お母さんが来るのは全然分かっておりませんけれども、もうそれこそ髭ボウボウだったでしょう、それまで、だから髭もきれいに剃って、そして今日初めて便所に行けるおかげを頂いたという所に母親が尋ねて来た。
どうでしょうか髭ボウボウとしておる、動きもしきらんという時に来るよりもね、言うならば合楽の、まあ顔も立つという訳でもないですけれども、おかげを頂いておるということが感じられ、また心配をせんことはないけれども、安心して、だんだん快方に向かっておると言う事だけでも分かって帰ってもらえると言う事は有り難い事だな。いつもの事ながら、私の場合いつも全ての事がそうなんです。これは私を中心に神様が働いておって下さる、言わば印なんです。
ここにお金が百万いるとしますと、まあこりゃいつも最近はね、そう言う事は御座いませんでしたけれど、ここの始めの頃は蓄えは全然ありませんから、久富さんがお初穂整理をいつもなさる。所が例えば今日は十万円とか二十万円とかいる特別の時がある、というてお届けしよんなさいました。所がその日に限っていつもの何倍もあって、丁度払うだけありました。先回りしてお願いするでも何でもない。先回りして神様の働きには恐れ入りますと。
ここのご建設の時もそうでした。善導寺の久保山さんが経理の方を受け賜っておりましたが、もう恐れ入ってしまいます、もうここの経理を扱わせて頂いて、神ながらな働きには恐れいる。もうそれだけで恐れ入る訳です。と言う様なこれは金銭的な事だけではありません。一切すべての事がそうなんです。これは合楽を中心にして神様が働いておられるとうことが分かるでしょうが。だからね皆さんも身しのぎが出来ると言う事は簡単な事ではないと思うです。「身に徳を受けて」と仰る。
身に徳を受けると言う事は簡単ではないと思うです。けれども身に徳を受けれる手立てが簡単に出来るように説いてあるのであるから、簡単に実行していくうちに、みんなもそのようなおかげが受けられると言う事になりましょうが。お徳をいっぺんに受けるということは出来ません。お徳を受けていくその手立てが合楽理念にしかも神様を中心に申し上げる所の成り行きを尊ぶとか黙って治めるという、天の心地の心をもっていくのですから、神様のお心に添い奉る。
神様のお心が分かって、神様の心に添う事になるから、神様もまた氏子の心を知って、この氏子を困らせる事はなさらない。ほんとにこれは椛目時代からでした。もうそういうおかげを頂き続けてまいりまして今日、ですからここで御用を頂く人達は、そういうおかげの頂ける信心を歩いておられる訳なんです。一段一段、一歩一歩。だから目指す所が。ほんとに神様の心を心とする生き方を。
楽理念に基づいて稽古なさらなければならない。そこから神様がおかげは、願って願ってではなくて、神様が先回りをしてちゃんとおかげの用意をしておって下さる。そこにまあ言うならば安心のおかげが日々頂けると言う事になるのじゃないでしょうか。今日私は「身に徳を受けて身しのぎをするようになれ」と仰る事を、今日の表現は始めてだってと思いますが、よくよく分からせて頂けば、今日の御理解の通りなんです。結局神様を中心に信心が出来てくると、神様が氏子中心に働いて下さる。そういう神様なんですね。
どうぞ。